1980年に盛善吉監督と初めてお会いしました。翌1981年、盛監督と助監督の根田さんが訪ねてきました。「今度は、朝鮮人被爆者の記録映画を作るので、事務局をやってもらいたい」とのことでした。私は、もともと深く考えずにものごとに取り組む性格のため、その時も「ああ、いいですよ」と軽い気持ちで、すぐに引き受けてしまいました。まさか、その時はこの映画とともに20年以上も歩み続けるとは、思ってもみませんでした。
ある人から、「韓国・朝鮮に関わるなら人生をかけるつもりでやらなければ」と言われたのは忘れられない言葉です。私としては、精一杯この言葉を胸に行動してしてきたつもりですが、まだまだ不十分なままで恥ずかしい限りです。
私の人生を変えた、映画のタイトルは、『朝鮮人被爆者の記録映画「世界の人へ」』。
1981年11月4日、東京の日本青年館でマスコミ向けの初試写会が行われました。
その日以来、全国各地の心ある方々から上映会の申し込みが殺到しました。そのため東京と奈良の事務局はフル回転して、フィルムの手配にあたりました。1982年には全国で240回の上映会が開催されています。
事務局の連絡紙として、「東京・事務局だより」を発行したのが、1982年1月でした。始めはB4表のみで、上映会の日程を載せただけのものでした、発行を続けるにつれ、B4両面となり、その時々の新聞記事なども入れ、フリーペーパーに近いものになっていきました。その「東京・事務局だより」が100号を迎えたのは、1989年6月でした。
この「世界の人へ」は、最初からカンパを中心に製作が始まりました。各地の上映
会でのフィルム使用料は制作費に消えていきました。私たちの自主上映会はほとん
どが赤字でした。数人の仲間の持ち出しで、ずっと上映会やコンサートを続けてき
ました。
どうして、そこまで時間とお金を割いて運動を続けてこられたのかというと、それは
盛善吉さんの作品に共通して流れている、「ロマンあふれるヒューマニズム」に惚れ
たからだと思います。
上映会はさまざまな人たちとの、交流、連帯を生み出しました。私自身にとって、
なにものにも代えがたい財産です。
「東京・事務局だより」は117号(1991年6月発行)より、「やわらかい水」とその名
前を変えて現在に至っています。もっとも、ここ数年は年に数号しか発行できなく
て、心苦しい限りです。(現在、184号です)このホームページは個人通信の「やわら
かい水」のウェブ版というつもりです。
会の名前は「やわらかき みずながれて いわをも うがつ」という魯迅(中国の文学者)の詩の一節から名付けました。
このような活動を通して、在日韓国・朝鮮人と共生できる世の中を作りたいと思
い続けています。また、在日韓国・朝鮮人と新しい文化を創っていきたいというのも、かれらとの間での20年来の課題になっています。
このホームページでも、在日韓国、朝鮮人に関することや、反戦、反侵略、反差
別の情報を発信していきたいと考えています。それと同時に、私の考えてることや、
趣味のことなども、気負わずに硬軟取り混ぜて取り上げていきます。どうぞ、よろしく。
やわらかい水発行人 湯澤和貴 @ TOKYO
盛善吉監督追悼集「又 会おう どこかで」
編・発行 盛善吉を偲ぶ会編集委員会 発行 みずのわ出版 078(242)1610 |