世界の子らへ

(原爆・1980年・広島の人々は今)

 あの被爆から35年を過ぎて今広島市は近代化され道は舗装され、高層建築が立ち並び、一見原爆の傷も跡形もないように見えるが、深い奥の所では黒い影がうごめいていた。
 中学から高校へあがる時、兄弟3人揃って腰に激痛を覚えて苦しむ被爆2世。この息子や娘たち被爆2世を思う親たち、身を引き裂かれるような悩み、その涙、あの当時幼児だった人々の怒り。
 「私は死人の山に捨てられていたんです。兵隊は、もう少しで油をかけて焼こうとしたんです。」
「私は映画館の前に捨てられていたので『映子』と名づけられたんです。」「ボクは、溝に捨てられていたから、溝口というのです。」
 そういう人々が広島に生きている。35年経てば、元兵士たちも語り始める。
 「死体は、水を飲んで腹がふくれているので焼けないんですよ。だからツルハシで腹を割って水気を出してから焼いたんです。運ぶ時も皮のはげた肉を持っても、ズルズルするのでやはりツルハシで材木を運ぶように、ひっかけてやったんです。仕方がなかったんです、命令なんですから・・・・・。」

 広島の重症患者が運ばれたという似島(にのしま)では、今でも人骨が姿を現す。こんな広島では、中学生たちが自分の学校のグランドで先生や先輩を焼いたことを知り、生き様、死に様を、足で探し出す運動を重ねている。原爆のむごさ、おそろしさ、朝鮮人被爆者の問題、戦争について、平和について考えはじめている。(翠町中学)

 また、自分の被爆体験を、樹木を植えるように、遺書のように語る被爆教師たち。「わしは今でもよう血を吐いて倒れる。そして病院に運ばれる。原因がわからん医者は、動いてはいかん。疲れては死ぬというだけじゃ。しかし、医者にそう言われても、杖ついて教壇に登るのはナゼじゃ。
 わしの血圧、最低は零(ゼロ)になる。血ができんようになっとるんじゃ、でも生きてる。そして原爆の本当の姿をお前たちに伝えたい。人間、死ぬる時は、ひとあばれするんじゃぞ。寝ていた人間が急に立って突然「トツゲキ」と叫んで壁にぶつかって死んだ人を何人も見た。わしも、あの日、もう死ぬと決めた時、爪で道路のアスファルトに自分の名を彫ったんじゃ。人間とはそういうもんじゃ。よう絵に描いてあるように、お化けみたいに被爆者たちが歩きおろうが。あれは人間ひとりでは生きられんのじゃ。一人が歩けば、この人たちについて行けば自分も助かるところがある。そう思ってついていくんじゃ。人間とはそういうものなのじゃ、と言ってもわからんかもしれんがのう。しかし、これだけは言うておく。原爆のことは、時には忘れてもええ。しかし戦争というものが何故起こるか、起こったらどうなるのか、それだけは、よう解る人間になってくれ」(翠町中学校坪井直先生)

 被爆者の語り部たち、教師たちは、自分の死を前に置いて語り続ける。子らは、それに答えている。今、世界には、広島に落とされた原爆の百万個分に相当する核兵器が存在しているという。原爆の惨禍を語れるのは、被爆者だけである。広島の、静かな深い怒りと嘆きを、そして祈りを世界の人々にとりわけ子どもたちに伝えたい。いや、なくなった子ども、大人になりかわって伝えなければならない。

(1979年作品。製作・監督 盛善吉。45分、カラー)  

 

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