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やわらかい水ライブラリー


映画監督盛善吉さんは、人形劇やテレビドラマの脚本、能の評論、創作童話、映画監督…と、多才の人だった。
その中であえて代表作といえば、記録映画「世界の人へ」(1981年)だろう。広島、長崎の朝鮮人被爆者を通して、日本の加害責任を問うた先駆的作品である。
20年前、原水爆禁止世界大会の演出を手伝ったのが縁で、被爆者の証言を記録した映画「世界の子らへ」を製作。この映画を見た朝鮮人被爆者団体の会長から、「次は私たちの映画を作ってほしい」と頼まれた。
制作費のあてもなく、最初はためらった。ある被爆者から「私たち日本人がまだ原爆の後遺症に苦しんでいるのに、なぜ朝鮮人被爆者の映画なのか」と言われて、逆に決意が固まった。当時、新聞への寄稿でこう記している。「原爆映画は30本ぐらいあるが、朝鮮人被爆者を正面からとりあげたものは1本もない」と。
大阪の裕福な家にうまれ、早稲田大学に進んだ。在学中から人形劇団「ころすけ」を主宰し、やがてテレビドラマの脚本を手がける。和田勉さんらが演出したNHKの歴史ドラマシリーズ「風雪」(64年)の脚本家に起用され、新進気鋭の放送作家として注目された。
だが、明治末の世相を描いた作品が「内容が暗い」と突然、放送中止になる。人形劇団も解散し、40代半ばから、記録映画にのめり込む。
奈良の夜間中学、被差別部落、そして原爆、朝鮮人差別。いずれも重いテーマだが、「ロマンあふれるヒューマニズム」の映像は今見てもみずみずしい。
お酒が好きで晩年は入退院を繰り返した。訃報が伝わったのもしばらくしてからだった。
偲ぶ会までに完成した遺稿集の題は「又会おうどこかで」。友人の小沢有作・都立大名誉教授は「ぜひ盛映画のライブラリーをつくろう」と呼びかけた。


(朝日新聞2000年6月26日付・地域報道部 鈴木明治)
                                                         
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  世界の人へ   遺言   うどん学校     小諸なる古城のほとり
  はやて    世界の子らへ   戯曲など