岩井先生と夜間中学

夜間中学で取り戻せた学び
夜間中学で取り戻せた学び (1)

「皆さん今晩は、89人の皆さん、ご入学おめでとう。今日からこの大阪市立天
王寺中学校夜間学級の生徒になりました。念願が叶って今日を迎えられたの
ですが、よう思い切って入学されました。」こう入学の祝辞を述べているのは、
天王寺中学の板倉清太郎校長だ。1969年(昭和44年)6月5日、午後5
時、校長が続けて、「東京に遅れること20年、大阪に夜間中学が開設された
意義は誠に大きいです。大阪の方々の力が結集されたこともさることながら、
東京荒川九中夜間の卒業生の高野雅夫さんの『義務教育さえろくに受けられ
なかった者の為に』という訴えが実り、本校に夜間学級が認められ本日の開
校となりました」
この日、天王寺中学校夜間学級に入学したのは、67歳のおばあさんから15
歳の少年少女ら89人、職業も主婦、労務者、寿司職人などさまざま。入学の
ため、住居や仕事まで変えてきた人もあるという。30代が最も多く次に20
代、50歳以上の人も12人もおり、紺や茶色のセーターや背広、ジャンパー
や和服の人もいた。ピンクのワンピースの少女もみんな壇上を見上げている。
テレビカメラのフラッシュが高野さんの姿を照らす。「俺の大阪での仕事は終
わった。」学齢時(小学生満6歳、中学生満12歳)の頃、学校どころではな
かった日々、旧満州からの引き揚げ少年だった高野さんは、入学生徒の中
に自分自身が、荒川九中夜間の校門を潜(くぐ)った時の姿を重ね合わせ
生徒に向かって言った。「しっかり勉強してください。大阪のことは君たちに
任せます」生徒たちの目に涙が浮かび流れた。
今まで高野さんを照らしていたカメラが生徒の方に向けられた。「カメラはいけ
ません。止めて」「テレビに映るのは困ります」
最前列の生徒がカメラの前に立ちはだかったのだ。「困ります」という声がず
しりと響いた。この夜間中学の専任教諭に決まっていた米崎・縄田教諭が生
徒の側へ走った。この両先生は3月以来、入学受付を担当されており、生徒
の実情を最もよく理解されている。大半の生徒は、職場や近所には内緒で
入学していたのだ。
中学校が義務教育、いわゆる六・三制義務教育となったのは、戦後2年目の
1947年(昭和22年)で、その頃は敗戦に加えて都市の戦災、食料難、生活
難などで孤児たちは浮浪化し学校どころではなかった。
大阪府教委の資料によると、1960年(昭和35年)の国勢調査に現れた全
国での義務教育未終了者は、142万56百人にのぼり、大阪府においても
4万9千5百人と推定された。4万9千5百人というと、あの春、夏の全国高等
学校野球大会で有名な、甲子園球場の入場者が約5万人といわれるから、
義務教育の未終了者が甲子園球場一パイいるということだった。
「私、テレビに映ってもかまいません」羽織、袴の小父さんや数人の若者たち
が前に座り、何とか入学式の報道も無事に終了した。89人の生徒たちは、明
日からの勉強を胸に夜の闇に消えていった。
みんな、明日からの失われた教育を取り戻す期待に胸をふくらませて。
なお、この日、岸和田市の岸城中学の夜間学級も公認され、府下2校の夜間
中学の誕生となった。           (自主夜間中学「麦豆教室」主宰)
  

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