岩井先生と夜間中学

夜間中学で取り戻せた学び

(9)

天王寺夜間中学でも三年生になると、昼間の中学校と同じように修学
旅行をすることになる。行き先などは教員が生徒と相談して決める。教
育委員会の規定もあるが、問題は生徒の経済的負担と体力面である。
昭和52年頃からの生徒の平均年齢の上昇と、修学旅行援助費(経済的
困窮の生徒に対する行政よりの援助金)の範囲で決めなければならな
いから一泊二日で、しかも教育的効果を考慮したら自ずから行き先は
限定される。どこにするか決めるのは頭の痛い話だった。しかし生徒の
大半は家族と離れて友だちや先生たちと共に旅行できるということは生
まれて初めてと、その日の来るのを心待ちにしている。
その年度は広島方面に決定した。事前に団体行動や持ち物の注意をするが、みんな上の空で聞いている。在籍する大半のオモニたちにとって広島は無縁の地ではない。多くの同胞が被爆しているが、世間では語られる機会はあまりない。お供え用の千羽鶴を折ることに決める。
当日10月29日朝8時、新大阪駅集合だ。私が30分前に着くと大半の生徒が集まっている。
「先生遅いねえ。私ら6時に来ましてんで」まあその服装たるや、ウィンドーから出てきた一張羅の正装にネックレスにイヤリング。「ヘエッ」と言うと「嫁さんが着て行け言うたから」事前の注意は無駄だったようだ。
予定通り車中の人となる。わいわいガヤガヤお餅やみかん、おにぎりを食べている。「これ朝ご飯、先生もどうぞ」などと子どものようにはしゃいでいる。しばらくして体の大きい趙命ぜ(山冠に是)(チョ・メイゼ)さん(当時56)が「先生、うちの主人ね、長崎で原爆に遭うて、また広島でも遭うたんで、ちょっと働いたら疲れますねん」「趙さん、それ反対や、広島が先やよ」「いや主人は長崎で、そんでまた広島」というので長崎のどこかと聞いたら佐世保やと言う。佐世保は原爆ではないと言っても原爆ですと言う。よく聞いてみると。
趙さんのご主人は戦前、慶尚南道(キョムサンナムド)から強制連行され、佐世保軍港の軍需工場で働かされていたが、連日の米軍機の爆撃で工場は全壊し、すぐ広島の造船所に移動させられ8月6日の原爆には遭っている。防空壕の中にいたために直撃は免れたが二次放射能を浴びている。趙さんは三人の子どもと病弱の夫を抱え土方仕事をして稼いできたと言う。隣の席で趙さんの話を聞いていた呉元順(オ・ウォンスン)さん(当時61)は、「私のシートムセン(義弟)ね、戦争が終わっても帰って来ないんです。『義姉さん、徴用行って来ます』と出て行ったままで、ひょっとしたら原爆に遭うてたのかもしれません」
広島の韓国人被爆者の碑は、平和公園の外に2メートルもある立派な碑が建っていた。オモニたちはローソクに灯をともし、お線香をあげ缶ビール、お茶、水、ワンカップ大関、そして1ヶ月もかかってみんなで折った、たくさんの千羽鶴をお供えした。オモニたちは墓前にぬかづき両手をさしのべ、地にひれ伏して拝んだ。私たちの墓参りには見られない光景だった。そして口々に次のような言葉を献げて祈った。
「同胞の皆さま、遠い広島に連れてこられ働かされ、その上に原爆にやられ、さぞ熱かったでしょう。喉が渇いたことでしょう。お茶も水もお酒もどうぞ飲んでください。そしてこの線香の煙に乗って、千羽鶴に乗って懐かしい古里へ帰ってくださいよ」と、いつまでもぬかづいていた。そのオモニたちの姿が私の瞼に焼き付いて今も離れない。

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