岩井先生と夜間中学

夜間中学で取り戻せた学び

(11)

私たちが「麦豆教室」として借りた青丘文化ホールは、JR環状線・寺
田町駅を降りて北へ五十メートルほどのガード下にある。学校の一
教室よりやや広いが、一部はホールの事務所に使われているため、
私たちの借りる教室は、長机と椅子を置いて三十人ほどの座れる場
所だ。
二階は書庫と厨房がある。書庫にはこのホールの持ち主の辛基秀(
シン・ギス)氏所蔵の室町時代からの、日朝関係の貴重な書物がぎ
っしり並んでいる。一方、厨房の食器棚には韓国・朝鮮の珍しい食器
類が飾られている。この厨房では辛氏夫人の朝鮮・韓国料理講習会
が週一度催されている。私たち、麦豆教室は毎週火・木の午後五時
から八時ころまで一階の部屋を借りたのだ。辛氏の好意でオモニた
ちの念願が叶ったのであった。
一九八五年(昭60)五月二十日午後五時、麦豆教室の開講の日だ。床を掃き机を拭く。一番に呉元年(オ・オンニョン)さん(61)が入ってきた。開口一番「今晩は、先生、ごぶさたってどういう意味ですか」「ご無沙汰?」「娘がお嫁に行った所のお母さんが来ましてね。ごぶさたいたしましてと言われたね、私、何のことか分からへんから、お土産ありがとうございましたと言いましてん」「呉さん、そのお母さんと永い間会ってなかったんでしょ」
「そうです。手紙も電話もしてません」「沙汰してないからご無沙汰や」「さたって」「お互いの知らせや便りのこと、それがないから“ご無沙汰”」「私、ご無沙汰の人いっぱいいますわ」
この日、その内に次々と生徒が来た。呉さんはさっそく、誰かれなしに「ご無沙汰してます」と言い回っている。麦豆教室の勉強が始まるというので朝日、読売、統一日報などの記者が取材に来ていた。教材は日本で働き続けた在日韓国、朝鮮のオモニたちの生活を中心に作った“いろはカルタ”だった。
【い】いつの世も□(ひと)との□(たす)け合い。
【ろ】論より証拠がためが□□(たいせつ)だ。
【は】働いて□(はたら)いてきた□□□(ごじゅうねん)。
読んでは書いていく。取材の記者たちもオモニに尋ねられ、取材そっちのけでいつしか座って一所懸命に教え始めている。頭の上を走る環状線の電車の音も、道を通る自動車の音も耳に入らない。教えてくれる先生と尋ねる生徒の声だけが教室中に充満する。書き入れた文字に赤丸がついている。
一時間あまりの勉強が終わった頃、関西芸術座の柾木とし子さん(25)が噛み締めるように読んでいく、生徒の目が文字を追う。生徒も一緒に朗読だ。
【す】好きな□□(べんきょう)これからだ。
最後の句を読み終えて、開校式に移る。生徒や先生の紹介の後、ホールの持ち主の辛氏は、「オモニの皆さん。勉強を始められるんですね、今皆さんの勉強ぶりを見て吃驚(きっきょう)しました。涙が出ました。私のオモニも文字を知りません。僕ら男は、故郷(くに)でも書堂(ソダン)で、また日本に来ても学校へ行くことができましたが、女のオモニたちは学校へ行けませんでした。やっと今勉強ができるのです。それも自分たちの力で先生を動かしました。僕は感心しました。この教室を使ってもらえる事を喜んでいます」
続けて辛氏は、「文字を自分のものにして祖国の地理も歴史も学んでください」。そして自らの歩んで来た道を次の時代の子どもたちに伝えてくださいとしめくくられた。
麦豆教室は始動したのだ。オモニたちは「ありがとうございました」と、感激の足取りも軽く夜の闇に消えていった。

(1) (2) (3) (4) (5)
(6) (7) (8) (9) (10)
(12) (13) (14) (15)