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天王寺夜間中学で「オール1」の卒業証書があるために、入学を認めてもらえ
なかった須尭君などの問題が表面化し始めた頃、東京でもこのような形式卒
業の問題が、くすぶり続けていた。
「掛け算の九九もできない私のような人間を、中学卒業と認めますか、勉強し
たいという私を、ナゼ夜間中学は入学させてくれないのですか」
こう叫んでいたのは北海道出身の古部美枝子さん(20)だ。第十七回全国夜間
中学研究大会の席上で必死に訴えていた。大阪の天王寺夜間中学が開設さ
れる一年前のことである。
この時点で大阪には夜間中学は無かったが、すでに東京8校、横浜5校、京都
1校、神戸1校、広島3校と18校の夜間中学が存在していた。これらの夜間中
学は毎年開催地を変え、教員や生徒の代表が集まり生徒の交流とお互いの現
状を把握し、発生する諸問題の研究等に取り組む研究大会で、各地の教育委
員会や文部省、労働省、厚生省が参加していた。
古部さんは貧困の中で育った。過労や栄養失調のため病気になり長期欠席を
余儀なくされた。教育を受けたくても、受けられなかったのだ。今やっと夜間中
学に出会い、取り戻せる教育に期待していたところ、押し付けられた卒業証書
のため入学できなかったのだ。
実際のところ戦後の混乱期にあって、不幸にも極貧の家庭では、いくら義務教
育だと言われても、教育より生活が大事であった。親に学校に行けと言われて
も子どもは働いた。親が病気であればなおさらだ。親のため家のため自らは学
校を諦めて働かざるを得なかった。あの「ガード下の靴磨き」のように。
小学校六カ年、中学校三カ年、これが1947(昭和22)年から発足した義務教
育の年限だ。だから極端に言えば、貧困であろうが病気であろうが、理由はど
うあれ、受ける義務を怠ったのは家庭の責任だと、行政も学校当局も”悪いの
はお前”だから学力がついていようがいまいが、出席しようがしまいが、年数
さえ過ぎれば、卒業証書を渡されて押し出されるのが現状であった。
その不条理を夜間中学側は行政に対して抗議したのは言うまでも無い。しかし
行政の壁は厚い。学びたい生徒の待つ時間も無にできないと、勤務時間外の
授業で生徒の要望に答えていく方法をとられていると聞いたが、現場の先生
方としては歯痒いことだったろうと思う。
その頃、夜間中学問題に一生を捧げたと言っても過言ではない高野雅夫さん
((1)で紹介)は、全国を廻り各地に夜間中学を作れという運動を続けていた。
もともと夜間中学は、戦後の混乱期、新義務教育制度が発足して昼間に通え
ない子のためにと、大都市や被差別部落など各地で各校が独自に夜間に開い
たもので、最盛期の1954(昭和29)年には87校もあった。それが1966(昭
和41)年行政管理庁が、文部省及び労働省に対して夜間中学は早期に廃止
の方向と行政勧告をした。
本人の責任ではない義務教育未修了のために人権すら疎外されようという人
がいっぱいいるのに、黙っていられないと「夜間中学廃止反対」に立ち上がっ
た高野さんは、行政とは反対に夜間中学を増やすため全国行脚を続けていた。
その成果が大阪で実ったのであるが、この苦労がどんなものであったか、語る
のはやすいが誰も真似のできないものであった。