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「学校におりたいです。もっと勉強したい」と言いながら天王寺夜間中学の開校時(昭44)に入学した高仁姥(コ・インスン)さん(5で紹介)は、三カ年の中学校の課程を終えて卒業した。「この学校があったお陰で自分の名前も、所・番地も書けるようになったし、孫や子の名も書けるようになりました」と、感動の挨拶を残して校舎を後にした。
開校時の入学生徒89人のうち在日韓国・朝鮮籍の生徒はわずか7人であった。高さんの卒業以降、年を追うごとに在日のオモニ(朝鮮語でお母さん)生徒の入学が増え続け、開校5年目には全校生徒300人の半数以上が、これらオモニ生徒で占められた。オモニたちの来日の事情や年齢などはおのおの異なるが、日本で住んでいても女には勉強はいらないと、生活のために働いてきた。
たとえ小学校に行けた者でも学校などでのいじめや差別などで、途中で止めざるを得なくなり、学校へ行かず働いた。だから日本の文字は読めない書けない、その上、中には祖国の文字も言葉も分からない人もおり、そのための悔しさはいやというほど経験した者ばかりであった。
このような生徒には「イロハのイ」から始めねばならなかった。それで一年生の前段階に基礎学級を置き国語の時間を増やした。だからここへ入学した生徒は修学年限を四ヵ年として、天王寺夜間独自で一ヵ年延長した。
天王寺の夜間中学へ入れば小学校の初めから文字が学べると聞いて、オモニたちが次から次へと入学してきた。その生徒の一人の全(チョン)さん(57)は「ひらがなは全部書けるようになりました」と喜んでいる欠席ゼロの優等生、生野区の桃谷から通っていた。
ある日だった。「先生、十一月三日がまた来ました」と言う。十一月三日は文化の日やねと言うと、違うと言う。全さんは目をしょぼつかせて「その日は長男の死んだ日です」と言う。そして「シマネケン」とはどう書きますか、全さんは、島根県、島根県と何度も書いていた。
昭和18年、朝鮮(現・韓国)の済州島(チェジュド)から嫁に来た全さんは、島根県の山奥でご主人と二人で炭を焼いていた。1年後、長男が生まれてすぐにご主人に青紙の徴用が来た。全さんは赤ん坊を背負って近所の農家の手伝いをして暮らした。
その年の十一月三日の朝、赤ん坊の泣き声で目を覚ました。赤ん坊は火のような熱を出していた。そして引きつけを起こした。全さんは里の医者へ走ろうとしたが言葉が言えない。お金がない。うろうろしてふと気がつくと赤ん坊は腕の中で死んでいた。「アイゴー」全さんは何日も泣き続けた。次の文は、全さんが初めて綴った作文だ。
ことばがわからんでも、あかんぼうをみせてたら、せんせいはなおしてくれ たでしょう。おかねはあとではたらいてかえせばよかった。わたしがぐずぐ ずして、ちょうなんはしんでしまいました。
異郷でたった一人残され、西も東も言葉も何もわからない朝鮮の若妻の「アイゴー アイゴー」と泣き叫ぶ声が今も聞こえてくるようだ。村の共同墓地に赤ん坊を葬った全さんは、知人を頼って大阪に出て働いてきた。やっと学生になった全さんはあの頃のことを、「悲しいて、ひもじいて、それは寂しかった」と話しながら「一度島根へ行って、長男のお墓にお参りしてきます」と、笑顔で言った。