「先生、電話でっせ」授業中に用務員の中野さんが呼びに来た。「誰から」「長浜さんから長距離電話ですわ」電話の主、長浜正勝君(31
=当時)は夜間中学の3年生。沖縄の宜野湾村(ぎのわんそん・現在は市)生まれ、長距離トラックの運転手だ。
宜野湾村は、沖縄本島の西海岸にあり、あの1945(昭和20年)4月
1日アメリカ軍が数百隻の舟艇で上陸した読谷村(よみたんそん)、嘉手納(かでな)村の南に位置する。上陸した米軍は南へ北谷(ちゃたん)村、宜野湾村、浦添村そして那覇市へと進撃したから、宜野湾村は戦場そのものだった。
長浜君は、「どこをどう逃げたか分からん。なあ上間君」と、名護市出身の上間栄治君(34=当時)に話しかける。「そうや、朝起きたらアメリカ軍艦が沖縄を取り巻いててな、蟻の入る隙もない。びっくりしてたら艦砲や、ボンボン撃ってくる。雨みたいに飛んで来ますんや」
上間君は、羽地内海の小さな島にある先祖の墓に隠れた。夜になってパイン畠や山に入って食べ物を探して生き延びたという。「ワンガ艦砲ヌ喰エ残(ヌク)サヤ」と言う。わしら艦砲射撃の生き残りですということだ。
6月25日の日本軍の降伏後の混乱は想像に余りある。全く学校どころではなく生きるために食べ物を探した。働いた。
「家、建てるのに土地掘ったら今でも骨が出る」と語る長浜君や上間君は、沖縄戦の生き証人でもある。首里も那覇も摩文仁ヶ丘まで木1本、草ひとつない焼け野が原だったのだ。
その上、沖縄は戦後27年間もアメリカの占領下にあったから、鹿児島に行くのにパスポートがいった。中学校が戦後2年目から義務教育になったが、二人とも学校どころでなく本土に渡って働いた。今やっと夜間中学で学んでいるのだ。
あの沖縄戦でも生き延びたのに夜の8時、長距離を走っている長浜君にナニゴトがあったのだろう。私は急いで電話口に出た。「長浜君、どこにいるの」「御殿場のインターからです」ナニか事故でもあったのかと聞くと、そうではなく御殿場で夕食中だと言う。今晩、学校へ行けないから今日のプリントを残しておいて欲しいとの伝言だった。妙に御殿場を繰り返していたのは、あのむずかしい御殿場という漢字が読めたと言いたかったのだろうか。
つい数日前だった。この長浜君と小学校の同級生で現在、沖縄の読谷高校の教諭をしている天久仁助(あめくじんすけ)先生が天王寺夜間中学を見学に来られた後、長浜君も上間君も一緒に、天王寺駅裏の焼肉屋へ行った時だった。
「なあ、仁助、ボクらの組には、お父さんのいる子、一人もなかったなあ」「そうや、お父さんは戦争に駆り出されて戦死や。正勝もよう生きてこられたもんや」「ワシらは兄妹が多うて学校へ行けなんだけど、仁助は高校の教師になれて良かったなあ」
二人が語るように沖縄戦では兵士はもとより幼い子ども、老人や学生など住民を巻き込んで戦われ、多くの犠牲者を出した事は記憶に生々しいが、いま30歳を越してやっと夜間中学で、過去に残した義務教育を必死に取り戻そうと努力している。
長浜君や上間君、そして夜間中学生たちは、みんなあの戦争のため教育を奪われたと言っても過言ではない。そういう意味では、夜間中学は本来あってはならない学校なのだ。
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