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麦豆教室の噂はたちまちにして拡がったらしい、開校の次の回以降、
毎週火木には新入生が増える。ほとんどは天中夜間の卒業生の懐
かしい顔である。
「先生ぇ、知らして欲しかったわ。せっかく夜間中学へ行ったのに何も残ってません」中には見知らぬ顔の友人を連れて「この人は菅南の夜間出ましてんけど、もっぺん勉強したいんやて、かめへんでしょ」
入り口の靴がどんどん増えて教室が賑やかになる。新入生の応待をし勉強の面倒を見る。電話が鳴る、てんてこまいだ。様子を見に来ていた夜間中学を育てる会の役員が、夜間中学(天王寺、菅南−現天満、文の里、昭和)の卒業生達だ。「これは夜間中学を育てる会の一環です」麦豆教室は、育てる会のような一面も持ち合わせたのだ。
開講二ヶ月には生徒には生徒三十二人教員も十人に増え教室は満
杯となった。教材は学力に応じて五種類用意しそれぞれに応じて渡していく。「私、夜間中学へは行ってません」初めて鉛筆を持つという林(リム)さん(55)が入ってきた。あわてて大きい枡形の原稿用紙を用意した。「リム りむ 林」と片仮名、平仮名、漢字へと先生が丁寧に教えていく。「はやし」は日本語読み、「リム」は韓国語読みと先生が林さんに話している。
以来、林さんは一番早く来て自分の住所、家族の名前、やってきた仕事、好きな食べ物などの学習を進めている。「教室へ来るのが待ち遠しい」夏休みのあるのが不満な林さん。
七月三十一日、いよいよ明日から夏休みに入る。この日、拙著「オモニの歌−四十八歳の夜間中学生」筑摩書房刊を全生徒と先生にプレゼントした。それは十二刷りの通知があったことと、その主人公「玄時玉(ヒョンシオク)」さんも麦豆教室の生徒の一員であり、前述したように、その本からこの教室の名を「麦豆」としたからである。
そして私が何故この本を書いたかを話した。玄さんは、私たちが奈良に夜間中学を作る運動をしていた時、いつも手伝いに来てくれました。その帰りに玄さんは故郷に残してきたオモニ(母さん)の事を話して泣きました。私のオモニは目が見えなくなりました。大勢の子を産んでもみんなバラバラその上、故郷の済州島の戦争(二十四年、四・三動乱)で父も兄夫婦も甥も妹夫婦も弟も家族七人を殺され、オモニは泣き過ぎたのか目が見えなくなりました。それに比べて私は日本に来て苦労はしましたけど、今こうして勉強ができて本当に幸福と思ってますと、話してくれたのがきっかけです。
私は玄さんの歩んで来た道を聞くにつれて、皆さんのように在日で生きてきた多くの人々の苦労を消してはならないと、書いたのがオモニの歌のこの本です。皆さんもこの教室でゆっくり勉強して、この本が読めるようにまた自分の歩んで来た道が書き残せるよう頑張ってください。九月からまた一緒に勉強しましょうと話した。
「もっと勉強したい」と言うオモニ達の願いで始めた麦豆教室であったが、こんなに充実したやりがいのある教室であるとは思ってもいなかった。
数え年で十五歳の玄さんが工場へ働きに行く時、いつも出会うセーラー服の日本の女学生、何が辛いかといってこの時ほど辛い事は無かったと言う玄さんやオモニ達にこそ、意義のある教室にしていこうと、ボランティアの先生達とも心新たな勇気が湧くのを押さえられなかった。