岩井先生と夜間中学

夜間中学で取り戻せた学び

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悲喜こもごもの毎年毎年だった。夜間中学に刻まれた歴史の中には教
育の原点に触れる問題が多い。学校側としての立場や制約、対する生
徒側の抑圧された学びの要求の発展、この違いからいろいろな問題が
生じてきた。その都度、生徒の思いを最優先に設立の趣旨を見つめな
がら問題解決に努力してきた十七年間が夢のように過ぎた。
昭和六十一年三月末、私はとうとう定年退職の時を迎えた。やり残した事が一杯あるようで残念であったが、淋しい気はしなかった。と言うのも古い卒業生たちが、私のこの日の来るのを待っていたのだ。
「先生、今度退職でしょう。待ってたんや」「みんなで相談して決めまして
ん。先生に字を教えてもらおう言うて」「今の生徒らは6年も学校に居れ
るけど、私らの時は三年や四年しか居られへんかった。勉強の途中で
卒業させられて何んにも分からへん。お願いしますわ」
私は断ることができなかった。これらの生徒の言うように最初の頃は中学校の修業年限に基づいて三カ年であった。その後、未就学生徒が多くなって独自に四年としたが、それでも卒業したがらない。生徒は未だ勉強が中途半端だと思っている。事実はその通りである。それで生徒たちは考えたのか、時間割に国語の少ない日は欠席する。勉強のない行事の日も欠席だ。三学期丸ごと長欠など出席日数不足を目指す。留年できるからだ。
毎年留年が増え収拾のつかない事態に、とうとう昭和五十七年度から学校独自の修業年限を決めざるを得なくなった。“希望する者は、各学年一回の留年を認める”こうして六カ年に延長されたのであった。
さて、今までの卒業生が集まって勉強できる適当な場所があるだろうか、心当たりをあちこち探すがなかなか見つけられなかった。やっと五月になって場所を確保することができた。JR環状線寺田町駅すぐの
ガード下にある青丘文化ホールだった。この持ち主の辛基秀(シン・ギス)氏は同胞の願いを理解され心よく貸してくださった。名づけて「自主夜中・麦豆教室」とし五月二十日夕方開設した。教員は私を含め四人、昼間の高校教師、関西芸術座職員、天中夜間第一期卒業生など、教員免許証など必要なし、生徒は十三人、天中夜間以外の卒業生たちも混ざる。こうして毎週火木の夕方五時頃から八時頃まで、日本語の読み書き中心の勉強が始まった。
この教室をナゼ「麦豆教室」と名付けたのか、それは―
「・ハーナイチョン(天)・タージ(地)・カームリヒョン(玄)・ヌルハン(黄)
私のアボジ(父さん)は、この文字がどうしてできたか、どんな意味を持っているかを教えています。村の人たちはお礼にと家にあるドブロクや豆、大根や麦などを持ってきます」(筑摩書房刊『オモニの歌−四十八歳の夜間中学生』岩井好子著)の中で述べたように、生徒の一人、玄時玉(ヒョン・シオク)さんの父さんが朝鮮の書堂(ソダン=日本の寺子屋)
の先生で村の子どもらに千字文を教えていた時、お金がかからないようにお礼は家にあるものでよかったという故事から引用したもので、この麦豆教室には校長はいない。学年も修業年限もない。あるものは生徒個々に応じた幾通りもの教材だけのマンツーマン授業に生徒らは満足気に通っている。

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