岩井先生と夜間中学

夜間中学で取り戻せた学び

「夜間中学へ入学したい」という生徒が後を絶たず、この実情に対して
行政は天王寺夜間中学に増学級を、そして大阪駅に近い所にと菅南
中学校に夜間学級を新設した。これで大阪府下には岸城中学と合わ
せ夜間中学は3校となる。
天王寺では生徒数も教員数も倍増し、以前にも増して夜の校舎は活
気づいていた。
「先生、この地図ですね」授業前には必ず私の所へ来て、掛け地図を
用意してくれる生徒がいた。2年1組の須尭君(21)。黒縁眼鏡の奥の
目がキラキラ光っている。痩せ型の小柄な青年だ。細かい字で丁寧に
ノートを取り、ひと言も聞き逃すまいと、私の話を食い入るように聞いて
いた。
彼はNHKの連続ドラマ「信子とおばあちゃん」を観て、はるばる九州の
飯塚からやってきた生徒だ。受付の先生に卒業証書を見せて最初は
断られた。”オール1”の成績表を見せて事情を言う。前回の松延君と
同じように聴講という形で教室に入れてもらえた。
ちょうど私の授業が終わった時、今年の春一期生(開校時3年生へ編
入)として卒業した倉橋健三君(34)がやってきた。
「みんな元気に勉強してますか」「ハーイ先輩、頑張ってます」
倉橋君は卒業証書をもらった事で見習いから正社員に採用され、その
喜びを他の人にも分かちたい。自分のまわりには自分と同じような人が
いっぱいいると言う。その人たちに「夜間中学に入って勉強しませんか」
大阪には天王寺、菅南、岸城の夜間中学があるということを、もっと広く
知らせたいと言う。
この提案を受けて学校は動いた。勿論、今、学んでいる生徒も卒業生も
教員もすぐに立ち上がった。こうして1970(昭和45)年6月「夜間中学を
育てる会」が結成され、潜在する義務教育未修了で苦しむ人々のため、
夜間中学の存在を知らせる運動が開始された。
この活動の一つとして三中学の生徒の実情、作文、マスコミの記事など
を集めた冊子を作った。表題は「キケ人や」。その中に須尭君の作文も
載せられた。その要旨を記す。

「メガネの苦しみに耐えて」  須尭 孝
俺は21歳、父ちゃんは福岡の炭鉱で働いていた。五人兄弟の俺は長
男、学校へ行っても黒板の字が見えず勉強はトンチンカン、11歳の時、
視力検査があって0.1、「メガネをかけなさい」と言われたが俺の家族
は七人、父の月収は七千円。その日を食うのが精一杯、メガネを買っ
て欲しいなんて言えなかった。メガネが欲しい、字が読めなくてオール
1。先生は卒業証書だけは出した。そんな俺が夜間中学で勉強を取り
戻したいと思っても、たった1枚の卒業証書があるために入れてもらえ
ない。俺は勉強したい。

養護学校卒業の松延君、オール1の須尭君、この青年たちは学力のな
いまま三年の年数が過ぎただけで卒業証書はもらっている。いわゆる
形式卒業生だが、その生徒が自ら勉強したいため夜間中学に入学した
いというのだ。
須尭君らが問いかけた「オール1」の卒業証書は、夜間中学への入学の
ための不条理だけでなく、義務教育そのものを問いかけるものであった。

(4)


(1) (2) (3) (5) (6)
(7) (8) (9) (10) (11)
(12) (13) (14) (15)