岩井先生と夜間中学

夜間中学で取り戻せた学び

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1971年(昭和46年)11月26日、この年の全国夜間中学研究大会は、第18回大会として大阪で開かれた。大阪に夜間中学ができたからだ。会場は天王寺中学の講堂、会期は2日。文部省の思惑とは反対に、大阪で増設という偉業を成し終えた高野君は東京へ帰っていたが、大阪大会を目指して前号に記した古部さんらと一緒に駆けつけた。
当日が来た。大阪はもちろん各地の夜中の関係者、行政、組合、マスコミ等で会場は満員だ。講堂の周辺には開会前から前述した須尭君や松延君、古部さんらの願いを支援するグループが、本人と共に「オール1の会」のゼッケンをかけて集まっている。
大きな拍手が湧いた。大阪の菅南中学の桑島校長の司会で開会した。挨拶など一連の開会行事が順調に進み各校の現状報告に入る。東京の日本語学級の報告があり、同学級の前島鉄雄君(20)が体験を語りだした。まず韓国語で、次に日本語で話し出した。「おっ母さん日本人ければ日本住む。お父っさん韓国人から韓国住む。でも僕は真ん中で誰も僕のこの気持ちあげますか」それはたどたどしい日本語で日本の生活を語り出した。全体の時間を気にした司会者は、「前島君ね、無制限に時間はあげられない」と発言を遮った。
発表を控えて壇上にいた須尭君と古部さんは、「まだ発表中ですよ。この会は生徒の実態を知って義務教育のあり方を考える会でしょ」
それでもなお中止させようとする司会者の生徒を無視する態度に、オール1の会は怒った。司会者のマイクを奪おうと、もみ合いになる。怒号が飛ぶ。会場は騒然となる。
控えていた高野君が、壇上のマイクを握って激しい声で非難の言葉を浴びせる。「なんのための大会ですか、生徒の声を聞かなければ何もわからないでしょう。形式のみにこだわって何が分かりますか、生徒の声こそが夜間中学にとっての原点ですよ」
会場はようやく落ち着き、前島君は最後まで発言し、次に須尭君が前に出て「皆さん、本当の僕の声を聞いてください」と、高野君らに護られ、貧しく学べなかった少年時代のこと、夜間中学で学びを取り戻したいと体一杯で語り、文部省や教育委員会の施策を追及した。続いて予定されていた十人の生徒が次々と発表した。会場の人びとは心を打たれ聴き入っていた。
最後に答弁を求められた文部省は、「学習意欲のある人にはその機会を与えるべきですが、こちらの教育委員会とも協議して」と発言し、この時点では生徒の願いは通じることは無く、この日の様子は、マスコミを通じて全国に報道されていた。
文部省のエリート官僚に、必死に訴えている夜間中学生らの願いなど、果たして理解できるだろうか。文字を必要としない、人の嫌がる賃金の安い職業にしか就けない古部さんらの問題は、まさに人権に関わる問題だということを。
この大会では、形式卒業生の入学問題、引き上げ生徒の問題、学齢生徒の問題、これら生徒で飽和する現場の問題、そして入学時期などを巡って、夜間中学が抱える苦悩が一気に吹き出した。戦中戦後の教育のひずみが集中しており、夜間中学の課題は容易ではないことを示した。
次の年度、松延君と須尭君らは、天王寺の正式生徒として迎えられた。通達はなかったが、府教委が黙認の形を示した。このことは、この大会の一つの成果にほかならない。


  


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